昭和51年05月31日 朝の御理解



 御神訓 一、「忌み汚れはわが心で犯すこともあり払うこともあり。」
        一、「祈りてみかげのあるもなきもわが心なり。」

 同んなじ事柄でもこちらの頂き方受け方次第で、おかげにもなるお徳にもなる。又はおかげにもならぬ、おかげ落としにもなると言う訳です。犯す事もあり払う事もあり。心を犯した場合はおかげにはならん。心が真っ暗になる。払う事になる時に、いうなら黒い雲が払われるように明るくなる。自分の心次第でおかげにもなれば、おかげにもならぬということであります。最近頂いております、本当に私の様な者がというたら、おかげは頂きにくうなる。
 私のごたるとはとてもおかげ頂ききるめと、自分で腹の中に決めておる。いわゆる自分の心の中にもう曇りが掛かっておる。もう自分の心の中にいうならば、忌み汚れ汚れた事になる。私の様な者でも神様がこの様に御用に使うて下さるし、私の様な者でもかくおかげを頂いて勿体無しという頂き方。これが私の様な者でもどんなに真っ黒い雲が掛かっておっても、いうなら汚れはてておっても、その汚れがその心に剥げてしまう。取り除かれてしまう。いうならばおかげの頂けれる心の状態が開かれて来る訳です。
 みかげのあるもなきも吾心なりと。そこでそれぞれに願いを立て、願いをもっておる訳でありますけれども、どうしても思う様におかげが受けられない。そこに始めて本気で改まろうという心も起きて来る。こりゃ自分の信心が足りぬからじゃと、足りんところをどこが足りんかというと、いうならば精進努力も足らんが改まるということに、これはいよいよ心を置かなければならない。
 昨日倉敷から、本部のちょっと向こうのところに倉敷という所があります。以前に私御本部参拝の時に、永井肝四郎先生と対談中に、ちょうどあのう正教君も一緒に同席しておりましたが、そのう私が御本部に来ておるというので、こちらへ電話を掛けたらしい、あるお願い事があって。ところが先生は御本部だというので、御大祭でそこで祭場に行けば、お会い出来るだろうというので祭場に行った。ところがあれだけ何万と、人が集まっておる事の中ですからね。
 それでそのう一番始めに、合楽の先生はどちらにおいでるだろうかと聞いたのが、ここの池田先生がまだ修行中ですからね、まだ御本部におりました時の池田先生でした。それなら今古川の方へおいでておられますから、私がご案内しましょうと言うて案内してくれた。そこでちょうどお取次ぎをさせて頂いたんですけれども、その時に永井先生御夫婦にお話しをしておったような、内容の事がその事であったからお取次ぎをまぁさせて頂いて、おかげを頂いたんですけれども。
 永井先生もその事によって、いうなら私のお取次ぎぶりというか、どう言う様なお取次ぎをなさるだろうかと思うて、まぁ関心をもっておられたに違いないのです。何か人間のいろんな願い事というのは誰にも聞かれたくない。それで私もちょっと別座を致しまょうと言われる、いいえいいですよと。例えば人の前では話されないというくらいな度胸ではおかげになりません。これがもし人に聞かせてならないというならば、こう言う様な例えば場面に彼女が現れて来る筈がない。
 奥さんが来ておりましたから、ですからねあのういいですよどういうお願いがあるか分からん、どういうお取次ぎをさせて頂くか分かりませんけれどもと言うて、私はお取次ぎをさせて頂いた。そして私がお取次ぎをさせて頂いた通りのおかげに、もう夕方はなり、その翌日は早速お礼の電話が掛かって来るという程しのおかげを頂いて、それ以来というものは、昨日夫婦で親子三人でお礼にわざわざ出て参りました。夕べその前の晩昨日の晩遅かったから久留米に宿泊して、そして朝一番のバスでお礼に出て来ておる訳です。
 お話しを聞きますともうそれ以来、もう本当にこれでもう終えたという程しの事柄がです、軌道にのってもうこれで大体安心がいくおかげを頂いたというので、昨日お礼参拝して来た訳です。話を聞けば聞く程に、神様のその鮮やかなおかげの渡され具合というものが素晴らしいです。ところが昨日もうあちらへ下がっておりましたら、電話が掛かって来た。ただ今倉敷に着かせて頂いたという訳なんです。ところが思いも掛けない事が起っとりましたと言う訳なんです。
 どういうことが起っとったかというと、その軌道に乗っておったはずの仕事がまた初めから引っくり返るような事になって、もう月末今日ですには従業員の給料の問題も関る事ですから、でありますのにどうしてお参りしてしかも、九州までも倉敷からお参りしてお礼参拝して帰ったら、また問題が元の状態に引っくり返っとったと言う訳なんです。だからね、明日のそのうまぁ給料のお支払いとかと言う様な事万事に、お繰り合わせをお願いしましょうけれども、これはいよいよおかげですよと。
 だからどこがおかげですかと、言った様なまぁ感じで言いやしませんけれども、まぁ問題はおかげ頂けばよかろうばの。とにかくお参りさせて頂いた、お礼参拝させて頂いたおかげで、こういうおかげがまた頂けれるということになるのだからおかげですよ。というて話した事でした。例えば鼓の音色というのは、皆さんもご承知のように千鳥掛けに紐が掛ってます。千鳥がけに掛っただけではない、それがぎゅっと締めあげられて真ん中を締めあげられてよい音色が出るのです。
 昨日これも遠方の方からお参りして来る方から手紙がきた。もう二、三カ月も前だったでしょうか、そこのあんまり大きくない小さい教会です。そこの御信者がここへ遠方から参ってくる。それでそのいわゆる御信者さんが、そのう自分の教会長先生におかげの泉を持って行って、合楽の御比例の話をさせて頂いた。始めは喜びござったけれども、しまいには段々ふうが悪なって、終いには私宛に手紙がきた。
 もうそれはあのうまぁ表面は何ともこう言えんような表現をしてありますけれども、どうしたならば私方のような小さい教会の信者を、取らなければならんのですかと言う訳なんです。先生は合楽示現活動ということを言われるそうですが、合楽だけがおかげ頂けばよいのですかとたたみかけた、そう言う様な質問。そしてそれに対してどうぞ、先生の御信心先生のご返事を聞かせて頂きたいというて言うて来ておりました。
 それで早速あのう返事を書かせて頂こうと思うて、神様にお願いさせて頂きましたら、神様かこうやってお茶を立てておるところを頂きました。お抹茶ですね。茶筅でさぁっとこうやるそして御理解にね、そうしてこう交ぜ混む訳です。他所の教会の御比例のない小さい教会のところのたった一人か二人でも、その信者を取られるということは大変な打撃には違いない。それこそ自分の茶碗を叩き落とされるような感じがされるに違いはない。けれども神様はやはり合楽だけが助かればよいのじゃない。
 それこそどこの教会でもどこの信者でも助からなければならない。その為にはいよいよ味わいを出させて頂くために、神様がこう混ぜくって下さる。教会をこうやって混ぜくって下さりよる。そこからよい味が出るのだと。だから返事はいらんということを頂きましたから、返事を出さんでもうそれから三カ月くらいなりますでしょうか。今日は昨日の先生からじゃないけれども、そこのここにお参りをしてくる御信者から手紙がきました。おかげで毎日朝参りが出来なかったのが、夫婦で朝参りが出来る様になりました。
 おかげであの時分は、まぁけれどもこの頃は朝参りが大変信者も多くなって生き生きしてきた。ちょうどあのう合楽のあぁいう私共が問題を起こした、あの時点から段々おかげを頂き出したというお礼の手紙が来ました。だから向こうの先生にとってもです、私が返事を出さんから一応腹を立てなさっただろう。合楽さえよけりゃよいのか、どうしたなら自分ところの小さい教会の信者を取らんならんかと、まぁ腹達まぎれであったろうけども、さぁそこは金光様の先生色々考えなさったに違いない。
 自分から離れていくということは、これは取りも直さず自分に力のない証拠、自分が力を頂く以外にはないんだと、一心の信心が始められ又は改まりの信心をなさったところから、そこの時点から段々おかげを頂くようになり、朝参りが多くなったというお手紙を頂きました。それこそ自分の心の中を掻きむしられる様な、自分の心がそれこそ掻き混じられる様な事があります。そういう時こそですよい味わいが出る信心をしなければ、何の為に神様がそういう掻き混ぜる様な事をなさるのか。
 ほんな事を分からせたいよい信心を頂かしたい、お徳も力も与えたいというのが神様の願いですから、その願いに応えさせてもらう。そして今までなかった味わいのいうならば掻き混ぜられてね、よい味わいのお薄を頂くような味わいというものが出て来る、その事が神様の願いである。または私共の願いも又そこに置かなければならん。もうとにかく合楽の金光様ちゃ大した新かな事だと、まぁ色々おかげを頂いてその倉敷の御信者がです、それこそ御本部を通り抜けて、わざわざ合楽にお願いに参るお礼に参る。
 しかもまぁいよいよ難しい問題でもです段々おかげを頂いて来て、もうそれこそお礼参拝をさせて頂いた。帰ったらまた問題がもとに引っくり返っておったと言う様な所にです、神様がよりおかげを与えたい、より力を与えたいよりよい信心を分からせたいという願いが、そこに神の声を聞く思いのする信心を頂かないけんのです。わざわざ九州当りまでもお礼参拝までもさせて頂いたのに、帰ってきたらこりゃどうした事じゃろうか。今までんとはおかげ頂いてござったばってん、あれは腑の良かったっちゃろうかと。
 言う様な頂き方にはもうおかげはないのです。忌み汚れはわが心で犯す事もあり払う事もあり。おかげの受けられない元も、おかげの受けられる力の受けられる元も、ほんの自分の心次第だということが皆さん分かるでしょうが。左と願っても右、右と願っても左、それこそ千鳥掛けのようにねなっていく。祈ってみかげのあるもなきもわが心。これだけ一心にお願いをしておるのに、どうしてこういう右と願えば左、左と願えば右と言う様な反対反対、裏目裏目が出るだろうかと思うたらおかげはなしです。
 そういう時にです、例えば昨日の頂いた御理解のようにね、皆さんここ二、三日頂いておる私の様な者でも、神様がかくおかげを下さるというところに、おかげの世界に入る事が出来るし、私の様な者がと、私の様なのがとてもおかげ頂ききらん、とても私どんじゃ出来んと言う様な心は同じ事柄、同じ問題であっても片一方はおかげを落としていく生き方、片一方はおかげを頂いていけれる心の状態だと、言う風に申しておりますね。
 昨日の御理解を頂きますとこういうことがあります。改まるということ。その改まるということに努力するという時に、初めてしんの力が頂けるということを頂きましたね。その改まるというとこはとても普通で出来る事じゃない。これはもう自分の血に肉になってしまっておる。自分の癌のようにこの癌を取り除いたら、自分も難しいと思われるようなめぐりでありましてもです、右と願っても左、左と願っても右。
 けれどもこれはまだ自分の信心が足りんのだ、いよいよ改まりが足りんのだと気づかせて頂いて、普通ではとても改まる事が出来ないのだけれども、いよいよ難儀から難儀といったような時に、初めて気が付き初めて改まる事に本気で精進をする。してみるとそういう時こそ、本当の力を頂く時だということが、皆さん分かるでしょうが。祈りてみかげのあるもなきもわが心なり。だから千鳥掛けになっただぁけでですよ。例えば一生終わるような事があってはいけんじゃないですか。
 金光様の信心も確かにならお参りをしてみるとです、皆さんのおかげを頂いておられる、親先生のおかげを現しておられる様子をみると、確かに神様の働きちゃあるもんだと分かっておるけれども、自分の手元のところではおかげにならん。右と願っても左、左と願っても右。とにかく不始意の事ばっかりだと、いうことが続いただけじゃいかんでしょうが。それこそ祈りてみかげのあるも無きもわが心なのですから。いよいよわが心を凝視して、自分のその心のこういう状態では。
 こういうものが心の中にあっては、おかげの頂けん筈だというものを突き止めて、普通では出来んのだけれどもそういう右と願っても左、左と願っても右と言った様な、千鳥掛けの様になる時にです、初めて一心発起していうならば死ぬ気でとでも申しまょうか、いわゆる一生懸命でその癌に取り組んで改まらせて頂くという。そこにです私しゃ一生千鳥掛けで終わると言った様な事ではなくて、そこに締め上げる所に本気で締め上げなければ良い音色は出ては参りません。
 鼓と同じ事です。おかげのあるもなきもわが心。ここまで信心がです進んでここまで信心をさせて貰っておるのにです、右と願えば左それが続いておる時にです。これはこれがおかげの頂けん元だなというものをそこに発見して、普通では出来ないのですけれどもそういう時にです。例えば昨日の御理解中にそのう改まるということが力、その力こそ真の力を頂くとか、誘惑に負けてはならん精神、精進、辛抱。その辛抱力こそ真の力になるです。普通ではとても辛抱出来ない様な事であってもです。
 2そういうおかげを受けなければならないという時にです、願っても願ってもおかげにならん時です。いよいよ苦しいところになって参りました時にです。ただ神様の間違いなさだけをなら信じてただ千鳥がけになってくだぁけでは、何時まで経っても千鳥掛けのままです。そこでひとつ本気でね中をひとつ絞り上げる、いわば力が必要なんです。その改まりによって、その改まる努力こそ、真の力を頂くのだというのですから。
 初めてねなるほど祈りのみかげのあるもなきもわが心だなということが、おかげを頂いてみて初めて分かるのです。そして実際改まってみたら、それこそ癌の手術を受けた後のような、すっきりとした心のおかげが頂けるもんです。勿論一つ改まっとけばそれでよいということじゃありません。それは一生かかっての事でございましょう。人間がいよいよ生き神を目指していこうと、言う程しの信心なのですから。
 さしずめ自分の心の中に自分の行いの中には、はぁ信心しよってこれがあってはこんな事では、おかげは頂けないということにです、千鳥がけになっていく時に初めて気づかせてもろうてです。ただ千鳥掛けになって、いつかおかげ頂くじゃろうと言った様な事ではなくてです、中をぎゅっと締め上げれる時期だなと自分で気づいたらです、本気にそこんところに取り組んで締め上げるところに。
 それこそ夢にも思わなかったようなおかげ、素晴らしい自分で自分の心の中に聞き耳を立てる様な、良い音色が心の中から発して来る様になる。そこにいよいよ信心の喜び、徳を受けて行く者の楽しみがある訳なんです。今日はこの二つの御教え。忌み汚れをわが心で洗うそれをここ四、五日前から頂いたておりますように、自分の心のおかげの頂けないものを払うということは、自分の様な者でも神様が御用に使うて下さる。
 自分の様な者でも神様がおかげを下さる、もう有り難し勿体無しという心が、自分で自分の心のいうならば忌み汚れを払うた姿であり、祈ってみかげのあるもなきもわが心という、これを昨日の御理解から、昨日の御理解の内容を頂いて、今日は聞いて頂きました。祈りてみかげのない時はです、いよいよどんなに願ってもどんなに願っても、いうならば右、左になっていく。千鳥掛けのような状態になっていく。
 そこがそれがね続くならばです、本当のおかげにならない事が続いておるならば、ここで一丁本気で一心発起して、いわゆる真ん中をぎゅっと締め上げる力を、ここに必要とする時であるということ。それこそ自分の心を掻き混ぜる様な事がある時にです、どうしたならば自分が自分方のような小さい教会の信者を、合楽は取るだろうかと思う間はおかげがなかったけれども。
 神様がこうして力を与えて下さろうとしておると、一心発起されたに違いない〇〇教会の、教会の今の段々おかげを頂いておられる様子から言うてです、神様が混ぜくっておると仰る訳です。その混ぜくられたおかげで良い味わいのおかげを頂いておられる、教会の例をお話を致しました様に、それこそいうならばね、岡山当りからまで倉敷当りから迄、もう合楽合楽というて参って来るからおかげを頂く。
 そしてもういよいよ軌道に乗った、もういよいよこれで安心と、言う様なおかげを頂いて、初めて親子夫婦揃うてお礼参拝をさせて頂いて、はぁ今日はおかげ頂いてよかったですのや、というて帰ったに違いないですよ。そして帰った途端にまた問題が元に振り返っとる。もう神様の演出のね素晴らしい事。それがだんだん分かって来るとです、その事が大変有り難い。
 そういう時にです、今まで頂いておったおかげは腑の良かったっちゃろう、位の事で信心を落として終う様な事では出来ない。そういう時にです、いよいよこれはまだ信心が足りんのだという生き方を現していく、そこに良い信心を育てて下さる力を下さる。それこそ憎うてこの手が当てられようかと言うのが親神様のお心なんです。だから当てられ続けておるといつまでも気付かなかったら、何時まで経ってもいうならばボコボコと言う様な音しかでません。
 カチッと言った様ないよいよそれこそ、澄んだ音色を出させて頂く為にはです、どうしても思う様にならない、時にはいよいよ神様の願いが成就しておる時と、言う様な頂き方をすると同時にです。ここは一つ本気で締め上げならんところは、締め上げんならんという信心をさせて頂いてです。いよいよ信心の真が表されていくおかげを頂きたい。いよいよ神様の願い、神様が受けてくれ。神様が受けてくれよといわれるおかげを受けさせて頂けれる信心。それを今日はこの二つの御神訓から頂きました。
   どうぞ。